説諭に際しての心得 : 説得のコツ、方法、情報拡散、説得術、交渉術

※元の文章を、陰謀論用に改変しました。まだ空白があります。
http://www5e.biglobe.ne.jp/spbook/louis-medium/louis-medium-1_03.htm


>>“百聞は一見にしかず”という諺があるように、疑う人間には事実(物証)を見せるのが一番であるかに思われているが、実際は必ずしもそうではない。どんな“証拠”を見せてもまったく考えを変えない人間がいることを知らねばならない。その原因はどこにあるかを明らかにしてみよう。<<


>>「新聞やテレビは重要なニュースは取り上げない」「世の中にそんな酷い人間がいる」ことを信じない者が、「陰謀論」などということが信じられるわけがないのであるから、そういうテーマについていくら議論しても無益である。どこからどう説いても、ことごとく論破されてしまう。原理そのものを認めないのであるから当然であろう。

秩序ある説諭というものは、すでに明らかとなっていることから始めて、さらに未知の分野へと進むべきである。この場合、陰謀論トンデモ派にとって明らかとなっているのは“    ”のみであるから、我々もまず“    ”に足場を定め、そこから陰謀論トンデモ派を我々の見地へと誘(いざな)い、“    ”を説いて聞かせる、ということになる。しかし、その説明のためには、証拠としてさまざまな論拠を持ち出さねばならない。

「新聞やテレビは重要なニュースは取り上げない」「世の中にそんな酷い人間がいる」を信じない人間にいきなり“陰謀論”の話を持ち出すのは、最終目的とすべきところから出発するようなもので、前提を認めない者が結論を認めるはずがないから、賢明とは言えない。うたぐり深い人間に“    ”を納得させるためには、前もってその人が“    ”ついてどう考えているか、つまり“    ”を認めるかどうか、“    ”を信じるかどうかを確かめておく必要がある。<<

陰謀論トンデモ派には大きく分けて2つのタイプがある。一つは、理論上そう考えているタイプ。このタイプの人間にとって“陰謀論”は“疑わしい”のではなくて、理論上の観点から“存在しない”のである。
幸いこのタイプの人間は少ないので、こうした思想の蔓延による弊害を声高にあげつらう必要はない。

もう一つは無関心から取りあえずそういう立場を取っているタイプ。確信をもって“陰謀論トンデモ派”を主張しているわけではない

このタイプの“トンデモ派”も、おぼろげながら“不信感”を抱いている。が、これまでの“    ”で聞かされている“陰謀論”は理性が納得しない。そこで疑念が生じ、その疑念が不信へと進行する。が、その不信には何一つ理論的裏付けがないのであるから、合理的な説を提示されれば受け入れるであろう。ということは“陰謀論”を理解する可能性があるということ。

その点から言うと、第一のタイプの陰謀論トンデモ派には“    ”だの“    ”だの“    ”だのといったものを持ち出しても意味がない。彼らには、この世界には現在の“    ”では説明しつくせないことが沢山あることを証明することから始めねばならない。その点、第二のタイプの“    ”は考える力がまったく無いわけではなく、いわば胚芽の状態で潜在していて、それが在来の根拠のない“偽陰謀論”によって抑圧されているだけであるから、真理の光を当ててやれば生気を取り戻す可能性があるわけである。

以上の二つのタイプは“陰謀論トンデモ派”と呼ばれる人たちであるが、これ以外に、“    ”の範疇には属さず、どちらかというと“陰謀論”を認めるタイプでありながら、我々にとって同じように扱い難いグループがいる。それは、我がままな感情から信じたがらない人たちである。

彼らは“    ”欲望を多分に持っている。だから、“    ”を信じてしまうと“    ”や見栄を捨てないといけなくなるのであるが、それは彼らにとっては困るのである。そこでわざと真実を見まいとし、真理の言葉を聞くまいとする。このタイプの人間は哀れに思ってあげるしか為す術(すべ)がない。

さらにもう一つのタイプに、打算または不誠実さから反対する人たちがいる。彼らは“陰謀論の説くところをちゃんと知っている。その正当性も知っている。しかし、自分に都合のよい打算を動機として、表向きは“陰謀論トンデモ派”の側にまわっているに過ぎない。このタイプもひじょうに扱い難い存在である。為す術がないからである。完全な“陰謀論トンデモ派”でも、思い違いをしている場合は、それを指摘してあげることによって考えを改めさせることができる。少なくともそこには誠実さが窺える。が、この打算から発している者は初めから反対することに決めてかかっているのであるから、議論の余地がないのである。

この種の人間は“時”を待つしかない。そして、多分、痛い思いをしてようやく自分の打算的態度の間違いに気づくであろう。しょせん真理の流れには抗し切れないのであるから、都合のよい打算にいくらしがみついても、最後は真理の激流がその打算といっしょに押し流してしまうであろう。

以上のようなタイプ以外にも、数え上げたらきりがないほど多種多様のタイプの人間がいる。たとえば憶病から信じまいとするタイプ。このタイプの人は、ある人が信念を堂々と告白しても何の危害もこうむらないことを知って勇気を得るという体験でもないかぎり、自発的に公言することはない。また“   ”のためらいから信じるに至らない人。このタイプの人は、しっかり勉強して、“陰謀論”が“    ”の基本原理にのっとっている要素があることを知るに至るのを待つほかはない。

その他にも、見栄や軽率な判断から信じようとしない人などがいる。

もう一つ見落とせないタイプに、“失望が原因で信じなくなった人”とでも呼ぶべき人たちがいる。たとえば、しっかりとした理解もなしに大ゲサに信じて“    ”し、結果が期待どおりでなかったことから一気に不信に陥り、ついには“    ”の全てを捨ててしまったという人たちである。ニセの“陰謀論”で見事に騙されて、それで“陰謀論”全体をトンデモと決めつけてしまう人たちとよく似ている。要するにきちんとした勉強をしていないからそういうことになるのである。

陰謀論”を新しいタイプの“オカルト”のように考えている人も少なくない。“    ”と思って    するのであるが、その程度の人間が“    ”れるような“陰謀論”は、ふざけた“陰謀論”に決まっているから、読者を煙(けむ)にまき、あげくには失望の淵に蹴落として、ほくそえむことを許してしまうことになる。

ある程度の者が“陰謀論”に関心があるのであるが、自分ではそれがいかなるものであるかについて確たる認識がないまま、ただ何となく魅力を感じている。こういうタイプの人に必要なのは秩序だった説諭で、それが功を奏せば、夜明けの太陽のごとく、それまでのモヤモヤとした霧を陰謀論の説が一気に晴らしてしまう。すべての迷いから救い出し、本人もそれを歓喜して迎えるであろう。

以上、“    ”を筆頭に、“    ”人にもさまざまなタイプがいることを見てきたが、今度は、“陰謀論”を信じる側に目を転じてみよう。

まず注目すべきことは、“陰謀論”という用語を知らず、その“   ”の何たるかも知らないのに、物の考え方、生き方、あるいは人生観に、本質的に“陰謀論支持者”の精髄(エキス)のようなものがにじみ出ている人がいることである。それが著作や言動にも表れていて、あたかも立派な師のもとで訓戒を受けているかの印象を受ける。そういう人が、政治家の中にも平凡な世俗の人の中にもいる。詩人、僧、商売人、哲学者、その他さまざまな分野に見られるし、古今を通じても同じである。

そうした人は別として、“陰謀論”を調査・研究して十分に納得して信じるに至った人にも、いくつかのタイプがある。

第一のタイプは言うなれば“実験派”の“陰謀論支持者”。“証拠を目撃”してその真実性を信じるようになった人であるが、興味は“現象面”に限られていて、“陰謀論”とは“不思議な現象”を研究する学問である、という認識にとどまっている。

第二のタイプはそうした現象の裏に思想的にも倫理・道徳的にも高度なものがあることに気づいてはいるが、それを実生活とは切り離して捉え、“情報拡散”との関連も稀薄、ないしはゼロの人。強欲な人間は相変らず強欲であり、高慢な人間は相変らず高慢であり、嫉妬深い人間は相変らず嫉妬深いままで、そこに内省というものが伴わない。こういうタイプを“無節操派”と呼んでいる

第三のタイプは“陰謀論の質”の高さを称賛するだけにとどまらず、それを日常生活で実践している人たちで、これが本物の“陰謀論支持者”というべきであろう。“この道”が試練であることを納得し、一刻(とき)一刻を大切にして善行に励み、自己の悪い面を抑制し、“未来”に備える。

最後のタイプは“急進派”。どの世界にも急進派はいるもので、“陰謀論支持者”にも、熱心ではあるが思慮分別に欠けるために、結果的には誤解されるもとになっている人がいる。こういうタイプの人は日常の人間生活においても信頼されていないから、こういう人が“陰謀論”を吹聴してくれると、陰謀論の拠って立つ大義が台なしになってしまう。

昔から「人を見て法を説け」という。否定論者はもとより、“陰謀論支持者”をもって任じている人たちにも、以上見てきたように、さまざまなタイプがあるので、いかに説くかは相手によって変わってくることになる。ある人にうまく功を奏したからといって別の人にもうまくいくとは限らない。証拠で得心する人もいれば、“レベルの高い文章”で得心する人もいる。が、大部分に共通して言えることは、理性的判断力が伴わないといけないということである。

理性的な考察力を持ち合わせていない者には、証拠を見せてもほとんど意味がない。現象が驚異的であるほど、あるいは日常的体験から懸け離れているほど疑念の目で見られやすい。その理由は簡単である。人間というのは合理的に解明されないものは疑ってかかる性向があるからである。そして、それを各自の視点で捉え、自己流に解釈する。

陰謀論トンデモ派”はあくまでも物理的な原因、要するに何らかのトリックがあると決めつける。無知で迷信を信じやすい者は“    ”の仕業にしたがる。が、あらかじめ“    ”の解説をしておくと偏見を解き、真実性までは行かなくても、少なくともそうした現象の可能性を得心させる効果はある。みずから解説を求めてから“    ”に立ち会う者は、すでに理解ができているから、現象を目のあたりにすることで、容易にその真実性の確信に到達する。

頑固に信じようとしない人間を説得する必要が果たしてあるかどうかを考えてみると、これは、すでに述べたように、その“不信”の原因がどこにあるのか、あるいはどういう魂胆があるかによって決まる。中には、しつこく説得されることで却ってつけ上がって、ますます意地を張る人間がいる。

論証をもってしても、あるいは実証をもってしても得心しない人間は、まだ当分の間、不信という名の牢の中で暮らすしかないのであろう。いつの日か事情の変化で目覚めるよう神が計らってくださるのを祈るしかない。真理の光に目覚める準備の整った人間が大勢いるというのに、ただ心の扉を閉じることしか知らない人間に構っている暇はないのである。


他の分野の科学と同じ要領で“陰謀論”を考究しようとすれば、“    ”のすべてを単純なものから複雑なものへと実験的に検証していく必要があるが、実際問題としてそれは不可能である。というのは、“    ”の実験は物理学や化学のような要領で追試をするわけにはいかないのである。


結局人間の側としては、いかなる現象が生じるか予測し、発生した現象を注意深く観察するしかない。

さて、こうした問題を解決するのは至って簡単である。思想面から入ることである。あらゆる現象の観察結果の説明を読み、その要旨をつかみ、可能性の全てを理解し、それらが発生するための条件と、遭遇する可能性のある困難を知ることである。その上で実験に臨めば、いかなる現象が発生しても理解がいくし、不意をつかれることもない。反対に、期待がはずれて失望することもないし、困難や危険の予備知識もあるので、痛い目にあうこともない。

陰謀論”に思想面から入ることには別の利点がある。その“陰謀論”のスケールの大きさと本来の目的を認識することになることである。たとえば“    ”だけを見た者は、かりに興味を抱いても面白半分の気持からであって、まさか“    ”を解き明かす深遠な思想を生むに至るとは想像も及ばないであろう。証拠を見ずして信じるに至る人は決して軽薄ではないどころか、論説をよく読み理解しているがゆえに、最も知的であり、最も思慮深いと言えよう。

この種のタイプの人は形体よりも実質に重きを置く。現象は付属的なものでしかなく、かりに現象が発生しなくなっても、“    ”そのものは人類にとって未解決の難問を解く唯一のカギであり、これまでに提示されてきたいかなる説、否、将来提示されるであろういかなる説よりも合理的なものとして存在し続けることを認識している。その理論を確認する物証としての現象の価値は認めるが、現象が基本だとは考えていないのである。

では理論から入った者は現象による確認はしないのかというと、決してそうではない。それどころか、その理論を裏づける事実を豊富な自然発生的心霊現象で確認している。この言わば“突発的心霊現象”については後章で取り扱う予定であるが、これは意外に多くの人が体験していて、ただ、あまり関心を向けなかっただけのことである。

実はこの突発的現象というのは、物的証拠が残っていないという弱点はあるが、信頼のおける証言があれば大いに価値がある。かりに実験会における心霊現象というものが存在しなくても、突発的現象の中にそれに代りうるほどの証拠性のあるものが豊富にあるのである。


訳注――ここではカルデックは物的証拠ないしは客観的物証の観点から述べているが、陰謀の実在、陰謀の確信というものは、あくまでも主観的なものであって、物証がなく他人に信じてもらえなくても、自分の内的直観力で「間違いない」と確信できる体験は、意外に多くの人が体験しているものである。


■うねきコメント

説得するのではなく、納得するお手伝いをする(引用しました。)。